投票してきました。

<参院選>午後4時現在の投票率33.85% 前回より微増

第22回参院選の投票が11日午前7時、全国約5万カ所の投票所で始まり、午後4時現在の投票率は33.85%で前回より0.41ポイント高くなった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100711-00000021-mai-pol
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選挙権を頂いてから、よっぽどの事が無い限りは投票に行っています。

初めて投票した時は、なんだか自分の一票が「国を変える!」なーんて考え、張り切って出かけたものでした。

今回私的に関心を持っているのは、やはり教育関連の事。
やっぱり人間って一番差し迫った身近なモンダイに興味を示してしまうのかもしれませんね

子供を大学に行かせるに際した負担というのは尋常ではありませんね。
最近ようやく、新聞やテレビで、大学生に対する国家的支援について喧しく報道されてきてますが、
つい最近までは、幼・小・中・高までの支援についてしか表には出てきていませんでした。

思うに、大学への進学に関しては、現在のこのような社会の情況からみれば、
以前の様に「みんなが行くから」という意識から「何を学んで、どう就職に生かし、どのような人生設計をするか」という、本来あるべき大学進学に対する意識の姿が主になるのは当然の事でしょう。

しかし大学の学費に関しては先日あるテレビでも報道されていましたが、ごく一般的な家庭では明らかに「これは無理」的な金額となっています。

文系で100万弱、理系では120万以上、それに仕送りや家賃。

アルバイトをすればいいではないか、という事ですが、ではアルバイトをしないで済む子供との勉学時間の根本的な差が発生するという現実は、、、、?

さらに「では、国立にすればいいのでは」という事になりますが、今や国立大学も初年度80万円は必要です。

仕送り・家賃の要らない「地元国立」という選択肢を全ての受験生が持てるという事は今の段階では無理な話です。

では、奨学金があるではないか、という事ですが、結局それは借金となり子供は20年もの長きに渡りその返済を行なう訳です。

持てる者と持たない者(←親の財布の中身)の差が、社会に出るスタートラインにおいてできる訳です。

勉強がしたい。学びたい。=親に資金的余力が無い。
この場合の選択肢は

1大学進学をあきらめる。

2奨学金を借りて、数百万の借金を社会に出る瞬間に背負う。

3学びながらアルバイトをして勉学時間や睡眠時間を削る。

等々になると思いますが、我が家の様に2と3が重なる場合もある訳です。

よく、子供を育てるにはお金がかかる、と言われます。しかしそれはやはり大学費用に関してが一番の事であろうと思います。

手前味噌でお恥ずかしいですが、よく実家の母が私に

「昔の人は自分が霞を食べてでも子供に教育を受けさせた」

と話していました。

結局、昔の人は自分が踏み台となり、次代の子供へ夢を託し、結果的にクラスアップを綿々と続けていたのではないでしょうか。

ところが一億総中流(今ではなんとなく空しく響く?)社会になり、「自己を犠牲にして次代に繋ぐ」という考えを持つ親は殆ど居なくなったのではないでしょうか。

私自身はどうなのかな。。。。とは思います。

無理をして、自分の子供に教育を受けさせること。(大学進学は本人達が望んだにしても、です。)

自分自身の野心かもしれないし、ささやかなクラス社会への抵抗かもしれない。

そして抵抗する人間には、社会は手など差し伸べないのは当たり前の事なのでしょう。

どの時代にあっても、クラスアップの野心=社会への抵抗と映るのでしょうか。

ですが抵抗するならとことん抵抗することです。
「出すぎた杭は打たれない」。それも又社会における事実だからです。

結局すさまじい自己責任を課せられる情況において、抵抗している過程はパーソナルな出来事であるはずが、そこから這い出た者に対しては、社会は、まるで過程を協力してきたかの様に受け入れる。そういうモノです。

どのように生き、どのような事を目指すのかは、個人の自由です。

ただし自由には責任が伴い、責任を全うする為には自分の欲望も犠牲にする事も必要です。

「無くすものが何もないという状態が真の自由」

という27歳で亡くなったジャニス・ジョプリンという女性ロックスターの歌詞があります。
本当にそう思います。

好きな事をする自由は、本当に厳しさを伴い、命がけでさえあるのでしょう。
そこから生還するのは並大抵の事ではありません。

繰り返しますが、私は自分のしたい事、希望、それをどう思いどう実現するかは本当に個人の自由だと思います。

しかしそれは「誰かがしてくれる」「助けてくれる」という物ではないのが現実です。

つまり、最大限の自由の元にその実現を図る場合は、そうでない場合とは最もかけ離れた自己犠牲が必要であるという、パラドックスがあるという事を私は感じるのです。

これは先に述べた子供の事以外にも、人生・仕事全てに当てはまる事だと私は考えています。

それでも、実は、私にとっては「自己犠牲」は決して辛いものでも悲しいものでもありませんが。。。。

また今日もワケの分らん長文でした。失礼しました、、、、。

はい、とにかく今回も投票に行ってきましたよ~